平和ハウス
Thursday, November 26, 2015
Wednesday, November 25, 2015
ストリート福音奉仕 Street Evagelization Ministry
主教 レイ ダニエル |
教会は、その「神の国」から目を離してはならないのです。教会が関わっているのは、ただ単に人々の精神的な必要、肉体的な必要を満たすことではありません。神の国のことに関わっているのです。神と人との関係に関わっているのです。人間の永遠の救いに関わっているのです。繰り返しますが、キリストの奇跡、例えば癒しの業は、その神の国の到来を指し示す「しるし」なのです。これから読んでいきます使徒言行録にも、沢山の癒しの奇跡が出て参ります。そして、それは決して二〇〇〇年前の特殊な出来事ではありません。歴史上の教会にも多くの奇跡の記録が残っています。現代においても、世界的に見るならば、癒しやその他の奇跡はキリスト教会において決して珍しい事ではありません。恐らく日本においても、そのようなことが決して珍しくなくなる時がやがて来るでしょう。しかし、それらは「神の国のしるし」なのだ、ということを決して忘れてはならないのです。癒しを売り物にする新興宗教のように癒しそのものを救いであると言ってはなりません。たとえ不治の病が癒されても、その人が神の国に入れられるのでなければ、神との関係、神との交わりを失っているのであるならば、その人に真の救いはないのです。依然として失われた者であり、真の命を持たない滅びゆく者だからです。教会の目はいつも、そのキリストの語られた神の国に向かっていなくてはなりません。そして、その宣教の中心は、罪の赦しを得させる悔い改めがキリストの名によって宣べ伝えられるところにあるのです。「あなたがたはこれらのことの証人となる」と言われている通りです。
The church must not take its eyes off this "kingdom of God." The church is not to be concerned only with meeting the psychological and the physical needs of persons. The church has to do with the kingdom of God. [The church] has to do with the relationships between persons and God. It has to do with the eternal salvation of human beings. I repeat. The miracles of Christ, for instance the works of healing, are "signs" that point to the arrival of God's kingdom. Even in The Acts Of The Apostles which we will be reading from here on, a lot of miracles of healing can be found. [But] they were not special events at all two thousand years ago. Many descriptions of miracles have been left behind even in the church, historically speaking. From a modern perspective or even a secular one, healings and other miracles are not strange at all in Christ's church. Perhaps even in Japan, the time will soon be here when such things won't be strange. But, we must not forget that it says these are "signs of the kingdom of God." We must not say that the healing itself like a new religion with healing for sale is the salvation. Even if a person is healed of an incurable illness, (unless he or she is let into the kingdom of God), whenever a person has lost his or her relationship and fellowship with God, then he or she does not have true salvation. -- Because the person is still a lost person and not having true life he or she will perish. The eyes of the church must be on the kingdom of God, which Christ declared. The center of that preaching is to be on proclaiming through the name of Christ the repentance effective in obtaining the forgiveness of sin. It is just how he said it, "You will become witnesses of these things."
Tuesday, November 24, 2015
サービスの順序
コミュニオン祈り
十戒
主が唯一の神であること
。
偶像を作ってはならないこと。
神の名前をみだりに唱えてはならないこと
。
安息日を守ること。
父母を敬うこと
。
(時間は良心を調べました。)
私たちは、善を行うことを約束します。主の聖なる名前で、アーメン。
牧師:
イエスは言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。(John
6:35, 39-40)
神にかんしゃ。
執事:
わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。
パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。(1Cor.
10:16-17)
会衆は言います:
牧師:
主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、
「これはあなたがたのための、わたしのからだである。
わたしを記念するため、このように行いなさい」。
食事ののち、杯をも同じようにして言われた、
「この杯は、わたしの血による新しい契約である。
飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。
だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、
主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。(1Cor.
11:23-26)
会衆は言います:
栄光は父と子と聖霊に
会衆は言います:
初めのように今も何時も世々に、アーメン。
(牧師と会衆は言います)
天にいますわれらの父よ、
御名があがめられますように。
御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
わたしたちの負債をもおゆるしください。
わたしたちを試みに会わせないで、
悪しき者からお救いください。
Monday, November 23, 2015
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